ファルディナの休日

「リッツ、おい、リッツ」
 年少組が寝静まった夜更け、不意に小声で揺すられた。同室のフランツを起こさないように配慮しているその声に、リッツは静かに身を起こす。
「何だよエド。夜這いか?」
「……お前の減らず口に拳を突っ込まれたくなければ、黙って起きろ」
 暗くてよく見えないが、低く怒りを込めたその声に、リッツは急いでベットから起き上がり、近くに掛けてある服を身に纏った。その間にエドワードはもう部屋を出て、廊下に立っていた。
 宿の中はまだ少しざわめきが残っている。ファルディナは観光の土地だから、年少組が寝てしまうぐらいの時間では街は寝静まったりしない。
 王国歴一五七四年十月十七日。
 一行は神の庭から帰り、ヴィシヌでリッツがアントンにアンナとの結婚を申し込み、王都シアーズへ帰る途中にいる。
 現在地はファルディナの街である。アンナはリラとディルと再会を果たし、大騒ぎを演じていた。
「で、何?」
 欠伸混じりにエドワードを見ると、エドワードは完全に外に出る支度を調えていた。かくいうリッツもそれは似たようなものだ。
 夜中にエドワードに起こされるということは『フランツとアンナも寝ているし、ちょっといいところに飲みに行こうか』ということなのだ。
 エドワードのちょっといいところとは、静かで落ち着いた雰囲気の酒場と言うよりも高級なお店を指す。そういう店には、とてもじゃないがアンナは似合わない。
 自分の恋人になったアンナに対してこういうのも何だが、アンナはまだ精神年齢がお子様だ。加えてフランツの場合、そういう店に行くと、料金を気にしてくつろげないという、何とも貧乏性なところがある。
 それを考慮して、少しいい酒を飲みたいとなると、こうしてこっそり出かけざるを得ないのだ。
 そしてそれは大体がエドワードの奢りとなる。保護者を二人抱えたリッツに、余分な予算はない。エドワードは元国王であり、自由になる金はそれこそかなりの額があるのだろう。
 だから高級な店に誘うのは、もっぱらエドワードからだ。リッツが誘えばまるでたかっているようになってしまう。
「いい店があるんだ。付き合え」
「仰せの通りに、陛下」
 欠伸を噛みしめながらふざけると、エドワードは肩をすくめてリッツ冷ややかな笑みを返してくる。
「では着いてこい、大臣」
「へ〜い」
 階下に下り、まだ数人の客が酒を飲み交わしている食堂で宿の主人ネットに断りを入れて、二人は夜の街へと歩き出した。ちなみに四人が泊まっているのは、ファルディナで馴染みになっている『緑の森亭』である。
 久々に訪れた時、エドワードの姿を見てネットが卒倒しかかった。慌てたネットが自治領主になったヘレボアに使いを出してしまったものだから、明日はそちらに赴かねばならない。
 面倒くさいなと思いつつも、正直少しヘレボアの顔を見ることは嬉しいし、楽しい。自治領主が三十年以上不在だったこの自治領区を、たった二年で立て直したヘレボアは、やはり尊敬できる相手だ。
 ファルディナの街を眺めながら、リッツはエドワードの一歩後ろの左側を何気なく歩く。一見すれば並んで歩いているようにしか見えないだろうが、不意の敵から身を守るためには絶好の位置なのだ。
 エドワードと二人だと、ついついこの位置を歩いてしまう癖がある。
 周りを見渡せば、夜だというのに明るく活気に満ちたファルディナの繁華街の人々が目に飛び込んでくる。このファルディナにヘレボアの前の自治領主がいた頃、夜になると道は静まりかえり、置き捨てられた死体が転がっていたものだった。
 ふと少し前のエドワードの背中が、昔のエドワードと重なる。王太子の制服ではなく、見慣れた農家の次男坊といったラフな格好の背中だ。
 そういえばこうして一緒に、ファルディナの夜の街を歩いたことがあった。あれはファルディナ攻略戦の時じゃない。何の時だっただろう。
 物思いにふけりながら、目の前で揺れるエドワードの無造作に結われた長い髪をみつめた。
 あの時はまだ髪が結えるほどに長くはなく、ようやく肩に届き始めたぐらいだった。
 そういえば先ほど記憶に甦った姿は、あの当時の外見とは少々異なっていた。
 前にも後にも、たった一度だけのあの姿……。
「リッツ」
 不意に声を掛けられて我に返った。
「何?」
「着いたぞ。ここだ」
 エドワードが示した先を見て、リッツは息を呑んだ。
「ここって……」
「ああそうだ。ファルディナ攻略戦後、俺を刺したリックの父親が経営していた店だ」
 絶句しながら見ると、重厚な木の扉には営業中を示す古びた看板が下がっていた。
 リッツは不意に先ほどエドワードの後ろ姿に感じた懐かしさを思い出した。
 そうだ。あれはメイソンの反乱後、本営に帰る途中にファルディナに寄った時に見た光景だった。
 リッツは過去へと思いを馳せた。
 TOP/NEXT
inserted by FC2 system