月夜烏の舞う宵は

〜序章〜
 トキは慣れた手つきで三枚のカードをテーブルに伏せた。
「さあ、クイーンはど〜こだ?」
 笑みを浮かべて、目の前のグラスにつがれたバーボンを親指と小指だけで優雅につまみ上げる。こんな簡単な仕草だけで、相手を軽く慌てさせられることぐらい百も承知だ。
 余裕を崩さず、自分の手元を凝視する観光客を観察する。古ぼけた上下のスーツに、くしゃりと型の崩れた山高帽。中肉中背の中年のくせに、興味で輝く瞳。戦後の平和ぼけした典型的な観光客だ。
 まあ、翌日が陽の日で休みとくれば、この手の観光客が国府のバーに溢れるのは当たり前のことだ。何しろ敵国からの艦砲射撃から逃れた、綺麗なままの国府は、今や絶好の観光地だ。
 それを利用させてもらうのが、トキの商売だから、ありがたいと思わなければいけないだろう。観光客様々だ。
「まだかい? こんな簡単な賭けに時間掛けてる余裕、ないんだけどさ」
「もう少し!」
「カード三枚しかないんだよ? そんなに苦悩することかよ」
 さらりと溜息交じりに、トキは黒髪を掻き上げた。自他共に認める見目の良さと溜息は、どうやら相性がいいらしい。
 大抵の客は、このトキの癖でよりいっそう焦り出す。生まれてこのかた親の顔など知らないけれど、この顔に生んでくれたことだけは感謝だ。
「じゃあ、これ! 絶対にこれだ!」
「オッケー。じゃあ返してみて」
 トントンと客が示したカードを指で叩くと、男は恐る恐るカードを裏返す。そこにいるのはもちろん艶めかしくウインクするクイーン……ではなく、むさ苦しいひげ面のキングだ。
「はい、残念。キングでした」
「え? 何で? だって……」
 困惑する客の目の前に手を突きつけた。
「は〜い、銀貨二枚ね」
「ちょっと待ってくれ!」
 焦る男に、トキはさらりと手のひらを裏返してカードを指し示す。
「何なら全部確認していいよ」
 余裕で笑みを浮かべると、男が苛立ち紛れに手荒くカードを三枚ともひっくり返した。キング、クイーン、スペード。何の変哲もない三枚のカードだ。
「これで負けを認める?」
「くそっ! 今晩はとことんついてない」
 懐を漁った男が、銀貨を十枚テーブルに叩き付けた。ありがたいありがたい。これで今晩はちょっと贅沢できる。
「もう終わりかい、旦那?」
 憮然としたままの男にからかい口調で言うと、納得できない表情のまま腹立たしげに吐き捨てた。
「終わりだ! マスター、勘定してくれ」
 つぶれかけた山高帽を叩いて埃を落とすと、男はそれをかぶって会計に立った。後ろ姿からも、悔しさと、気軽に賭けに乗ってしまった後悔がはっきりと浮かんでいて、こみ上げる笑いを抑えきれない。
 トキは内心で『毎度あり〜』と舌を出した。
 男の自分から興味がそれたところで、トキはサスペンダーでつり下げた労務者風のズボンのポケットを軽く探った。手の中には、今晩のスリーカードで稼いだ銀貨がたんまりと詰まっている。
「サンキュー、じっちゃん」
 小声で礼を言うと、近くのスツールに腰を下ろしていた老人に銀貨を一枚投げる。白髪にひげ面の老人がそれを片手で受け取った。
 さすがは元スリ、未だに手は器用だ。
「稼いだな、トキ坊」
「チョロいチョロい。じっちゃんのおかげさ」
 トキは手の中のカードに目を落とした。
 スリーカード。
 最も単純明快なペテンだ。三枚のカード、キング、クイーン、スペードを伏せておき、三枚をテーブルの上でよく切り、どれか一枚を当てさせるというものだ。
 トキがじっちゃんと呼ぶこの老人は、サクラである。先ほど払った銀貨一枚は、サクラの報酬だ。サクラが居ないと、このペテンは上手くいかない。
 まずサクラは、こちらに興味を示していそうな観光客の前で、トキと勝負をして、華々しく勝ってみせる。しかも至極自然に、当たり前のように。
 老人の前にはみるみる銀貨が積み上がり、トキは参ったというように『もう勘弁してよ、じっちゃん』と嘆き、こちらを見ている観光客に『俺と勝負しない? 今夜はついてなくて、このままじゃ帰れないよ』呼びかけるのだ。
 これで大抵の客はつられる。ついてないトキを相手に大勝ちする気になっているから、金離れもいいのだ。
 当然だが、トキは客を勝たせはしない。最初に客は、分かりやすいように少し端が折れていたり、真ん中に癖が付いているカードを選んでそれに金を賭ける。素人からすれば当然のことだ。
 それを知った上で、トキはカードに修正可能な状況で印を付けているのである。そして目の前で三枚の位置を入れ替えながら、その目印を消してしまう。折れたところは真っ直ぐに、付いていた癖はまっさらにと言う具合に。
 そして全然違うカードを折り、癖を付ける。当然客は癖の付いたカードを選ぶ。それは絶対に外れのカードだから、客が勝つことは決してない。
 三回やると、怪しまれるから、大体一人を騙すのは二回までと決めている。二回で一人銀貨四枚。銀貨一枚あれば、トキと相棒が食堂で夕食を取れるぐらいの金額だから、単純な割に儲けはでかい。
 見渡すと、観光客の割合はかなり減っていた。マスターの後ろにかかっている大きな振り子時計は、もうすぐ深夜であることを示している。これ以降の時間は、綺麗どころとの楽しい一夜を求める客が増え、花街が逸る時間帯だ。
 すなわちトキの仕事時間は終了だ。
 軽やかにカウンターに近づいたトキは、マスターの前に銀貨を二枚差し出した。
「これ今晩の支払いと、俺の酒代ね」
 軍人を思わせるがたいのいいマスターは、それを手慣れた手つきで受け取った。
「今日は終いか?」
「うん。今日は結構実入りが良かったよ」
「そりゃあよかったな」
 片方の口角を持ち上げて笑うマスターに、トキは惚れ惚れした。こういう格好いいおっさんになるのがトキの夢だ。
 高級酒場『宵霞』。ここがトキの商売場所だ。この周辺にもいくつか懇意にしている酒場はあるが、ここが一番融通が利く。
 マスターのコウロは、片眼が義眼だ。ガラス玉なのに、妙に生気を感じるその目は、昔義眼詐欺というペテンに使っていたのだという。トキは前にその手口を教えてもらい、代わりに銅貨をたんまり巻き上げられた。
 今はすっかり堅気の酒場店主であるが、彼は元々詐欺師でペテン師だった。トキの師匠でもある。
 短く刈り込んだ髪はごま塩頭と表現できるほどに、黒髪と白髪が交じり合っている。年を聞いたことはないが、おそらく六十代ぐらいだろうとトキは推測している。
「一杯飲んでいくか、トキ?」
 声を掛けられて首を振る。人に驕るような甘い男ではないことぐらい、百も承知だ。それにトキは夜も夜中まで、一人でのんびり羽を伸ばして居られない事情もある。
「いいよ。相棒が腹空かせて待ってるし」
 わざとらしく肩をすくめてトキは溜息をつき、カウンターに肘をついた。
「そろそろ飯買って帰んないと、また空腹で気絶しちまう」
「まるでひな鳥に餌を運ぶ、親鳥だな」
「俺が居ないと、飯を喰うのを忘れるって所はそうかもね」
 ペテンの種や、色々な小道具を作っているのは、トキではなく一緒に暮らす相棒だ。でも彼は極端に人嫌いで、部屋の外に出たがらない。最近ではその引きこもり具合がますます悪化していて、相棒であるトキと時間を過ごすことすら減ってきている。
「相変わらず、あいつはモグラか?」
「ヒワが聞いたら怒るよ。仕方ないじゃん、ヒワは社会不適応者だし」
 相棒のヒワを思い出して苦笑する。ヒワは生粋の遙東人では無い。敵国であるネーソス人と同じ白色系の血が混じっているのだ。完全なる黄色人種の中で、敵国である白色人種が混じったヒワはよく目立つ。
 だからこその社会不適応ぶりなのだ。
 子供の頃から一緒に苦労してきた路上少年だから、お互い気心も知れているし、お互いの分もわきまえている。そうでなければ相棒とは暮らせない。
「社会不適応者か。不精者を格好良く名付けたもんだな。たまには顔を出せと言っておけ」
「了解。じゃマスター、また週末に来るね」
 古着屋で購入した、払い下げの重たいフェルトの軍用コートを羽織り、いつものように手を振ってマスターに背を向けると、いつもとは違った声で呼びかけられた。微妙に説教めいた声に身構える。
「トキ」
「何?」
 振り返りもせずに返事をすると、マスターが小さく息をついてから言葉を続けた。
「戦争が終わって二年経つ。もうお前たちが就ける、まともな仕事が増えてきたはずだぞ」
 やれやれ、またこの話かと、トキは溜息をついた。
「俺はこのままでいいよ」
「良くないだろう。トキもヒワも」
「いいよ。だって生活できてるじゃん。自分で稼いで家賃も稼いで、食い扶持も稼いでる。マスターだって同じ仕事でずっと稼いできたんだろ?」 
「……そうだがなあ」
「その日飯を食える金があって、その週に暮らせる部屋代があって、ちょっと楽しみに金を使えて。結構毎日充実してるし、俺は俺のやりたいように暮らせてる。ヒワだってそうだ。何が悪いんだよ? 俺は俺の稼ぎ方に自信を持ってるよ」
 最近回りの大人たちが、よってたかってこんな話をしてくるようになった。
 戦争が終わったと言っても、トキたちのように路上生活をしている子供も多い。彼らにちゃんと職に就けと言ったところで無駄だろう。職に就く前に、その日の食事を取りたいし、雨露をしのげる屋根のある場所を確保したい。
 そのためには、きちんとした仕事を探すより、トキのようにペテンや詐欺で喰うか、スリになるか、物乞いした方が早かった。
 生きることが最重要なのに、何故仕事を見付けねばならないのか、それがトキには全く分からない。
 トキの考えは態度に出るのか、マスターは気を悪くしたでもなく、いつものように唇を軽くつり上げて笑う。
「ま、そういう生き方もあるっちゃあるよな」
「あるよ。だから俺はこのままで全然いいって。それじゃね」
 マスターの視線を感じながらも、トキは酒場の扉を開けた。一気に流れ込んでくる空気の温度はひりひりと染みるぐらいに冴えて冷たい。雪が舞うことすらも希で、路上で生活していても、凍死することのないこの国の気候には感謝しているが、寒いものは寒い。
 今頃相棒は、暖かいベットの上に寝転んで読書三昧なんだろうなと思うと、微かに腹立たしくもあるが、稼げているのは彼のおかげだから、深くは考えないように小さく息をついて空を見上げた。
「もうすぐ今年も終わるなぁ」
 最も寒い土凍(つちしみ)月も過ぎ、まだまだ寒いが十三番目の雪消(ゆきぎえ)月に入ろうとしている。あと数週間でいつもと変わらない、何もかもが今まで通りの一年が過ぎ、今年も新たな芽吹月がやってくる。
 だがトキも、ヒワも何も変わらない。
 それでも年末は何とはなしに心が浮き立つ。冬が終わるのと同時に、年が変わる。春の訪れと共にまっさらな暦が始まるのは、新たな世界が生まれ出たようで心地よい。
 また馬鹿騒ぎが好きなトキは、年末の国を挙げての派手な祭りも楽しみで、この季節はいつも心が躍る。
 空気が澄んでいるのか、天空から降り注いでくるが如くに、夜空を星が埋め尽くしている。そういえば前に相棒が、海を渡る時に星の位置が重要なのだと言っていた。今はもういない親からでも聞いたのだろうか。
 だがこの国を出ようという気が全くないトキには、そんな話は全く興味が無い。せいぜい『星ってそんな役割もあるんだな』と口にしたぐらいだ。
 今まで通ってきた道を振り返ると、きらびやかな国府の輝きが嫌でも目に入った。この国は平和だ。まだ戦後二年しか経っていないけれど、この街は何事も無かったみたいに綺麗だ。
 トキの住むこの国は遙東(ようとう)皇国という。実在したと言われる女神と精霊王の住まう伝説の大陸が、この国の遙か東に存在しているという言い伝えに基づき付けられた名前らしい。
 遙東は楕円形の大きな島で南北に長く、他の国家と同じように回りを海に囲まれている。その島の中央にこの街はある。国府と呼ばれるこの街は、女皇が住まう国の中心であり、正式には国府瑞山という。緑に囲まれた美しき山岳地域という感じの意味合いらしい。
 その名の示すとおり、緑に溢れ、古い街並みをたんまりと残すこの街は、とても綺麗だ。その上で様々な人々の行き交う商業の中心地である。商業の中心地でもあるこの街には巨大な駅があり、遙東の主要都市へ向かう蒸気機関車が、毎日幾本も行ったり来たりを繰り返している。
 だがそれも目に見える中流階級以上の居住地での話だ。トキの住む貧困街と下級街は、まだまだ貧しく薄汚れたままだ。長く続いた戦争に国は未だむしばまれている。
 重たいポケットの中身が派手な音を立てないように布を突っ込み、トキは軽やかに中心街から自宅のある貧困街へと歩き出した。
 酔っ払いの陽気な声や、微かな喧嘩の声、女の呼び込みの声が、冷たい風に乗って流れてくる。
 大人たちは呑気なものだとトキは思う。戦争が終わって平和になったと浮かれ騒ぐが、トキたちのような存在にまでその恩恵が回ってくることはない。少しまともに考えてくれる大人が入れは、ガキ共だって暮らしやすくなるのに。
 中心街から少しづつ離れるに従って、道は下り坂になってくる。人々の喧噪も遠ざかり初め、石畳に自分の足の音ばかりが反響した。
 国府を中心に同心円状に作られた大都市瑞山は、大通りさえ歩いていればとても分かりやすい街だ。ただ道を知らずに、細かな路地に入るという無謀なことをすれば、迷うこと請け合いでもある。
 細い路地に入ると、ほとんどの家の明かりはすでに消えている。当たり前だろう。ここは住宅街だ。夜遊びを楽しむ人々と、トキのような仕事の人々以外は、とっくに眠りについている。
 時折明るい窓辺を見上げて、見上げてしまった自分に、トキは少し後悔する。
 暖かそうな明かりの漏れている家々の窓辺には、夜の闇の中でも鮮やかな草花が飾られていて、窓辺には明かりに照らされてほっこりと心の温まる雑貨が並んでいる。
 ランプではなく電灯がついているから、中流のほどほどに位置する、ごく一般的な家庭の、暖かく幸せな光景。
 トキが味わったことのない世界が、その窓辺の奥に広がっている気がして、心の中の孤独を噛みつぶす。親の顔さえ知らないし、どんなのが幸福な家庭かも知らない。そんな自分が妙に惨めに感じる。
 ことにマスターからまともな仕事に付け、などと説教された日は。
「ちっ……」
 小さく舌打ちして、トキは家に向かって早足で歩き出す。また自分の不幸と、他人の幸福を引き比べてしまった。
 比べたってしょうがないし、相棒と暮らしているこの時間が楽しいはずなのに、微かに物足りなく疼く心の指し示す意味が、トキには分からない。
 分かりたくないだけかもしれないが。
 冷たい空気に、せわしく吐き出されたトキの呼気が白く曇る。再び舌打ちして、そんな自分の感傷からも逃げるように、トキは足を速めた。
 静寂に支配された住宅街に響き渡る自分の靴音に、誰に言うでもなく心の中で『ざまあみろ』なんて言ってみる。
 実際に自分がそんな風に吐き捨てられたらきっと、『負け犬の遠吠えかよ』と相手を鼻で笑ってしまうだろう。
 まったく、こん畜生だ。
 住宅街を抜け、夜の公園や、雑多な職人街を抜けると、深夜にもかかわらず街はまた活気を取り戻す。
 電気などは来ていない。あちこちを明るく照らすのは、昔ながらのガス灯と、あちこちの店先に吊されたランプの炎だけだ。でもトキはこの光景が大好きだった。
 大きく一つ息をつくと、ようやく先ほどの重苦しさを胸の中からはき出せた気がして、小さく安堵の息をついた。
 石畳に舗装すらされていないこの雑多な街こそが、トキのふるさとであり、大切な場所だ。トキの足を持ってしても、中心街からは歩いて軽く三十分以上はかかる。ほどほどに背の高い人間からしてそうなのだから、きっと女性や子供なら、余裕で一時間近くかかるかもしれない。
 だからこそ、観光客などが入り込んできたりしない、貧困層の楽園となっているのである。
 大きく伸びをして、少し匂いのある生活臭を吸い込みながら、街をゆっくりと散策する。今日の夕飯を買わねばならないが、何にするか決めていない。
 街の入り口では、深夜にかかわらずいくつかの露天が出ていた。そのいくつかを冷やかしてから、少し奥まったところに店を出していた老婆に声を掛ける。
 うつらうつらと船をこいでいるが、起きているまで待ってたら夜が明けてしまう。
「ばあちゃん、何かおかず残ってる?」
 目を開けた老婆が、しわくちゃの顔をほころばせ、黄色い歯を覗かせて笑った。
「あららトキちゃん。お帰り。今日も稼いだかい?」
「ま、ぼちぼちね」
「そんな謙遜して。肉と魚、どっちがいいの?」
「今日は寒いから、暖かいお肉料理がいいな」
 ワゴンの中で湯気を立てる料理を覗き込む。見た目はみすぼらしい老婆だが、料理の腕はかなりいい。少し稼げるようになってから、トキはこの店によく立ち寄るようになった。
 時折買い物に出かけるヒワが買う総菜もこの店のものが多い。
「ああ、それなら牛の煮込みがあったよ。時間ばかりあるからとろとろになるまで煮込んだ、自信作さ」
「いいねぇ。値段もそれなり?」
「牛だよ? ちょっとは色を付けておくれ」
 老婆の少し濁った瞳が、抜け目なく細められた。この街に人がいいばかりの人間など居ない。皆こんな風に遠慮なく、したたかだ。
「一口味見さして。旨かったら、俺の分と相棒の分を買ってくから」
「いいともさ」
 差し出された小皿を味わうと、寒空の下でしみじみと旨かった。これだからこの老婆の店で金を使ってしまうのだ。
「今晩の分と、明日の朝の分もらうよ。いくら?」
「鉄貨七枚でどう?」
「いいよ。ほい」
 トキは銅貨を一枚老婆に渡した。
「つりはいらないから、その分ちょっとおまけして」
「肉を多めに入れてやるよ」
 レードルを入れてスープをかき回している老婆から、自分の財布に目をやった。
 ポケットに突っ込まれている金は、家に帰ってから七割対三割の割合で相棒と分ける。それまでは手を付けない決まりだ。その中から、お互いの生活費を出し合い、今トキが手にしている財布に入れる。
 食事代や、二人で使うものはほぼ全てこの財布から出ることになっている。家に籠もって、ほとんど外出しないヒワではなく、常に外を歩き回るトキが持っているのは当然だろう。
 食事は一度に二人分合わせて銅貨一枚まで。一日二回の食事で一週間七日だから、銅貨十四枚ほどで事足りる。銀貨にして一枚と半分ほどだ。
 スリーカードで一人から巻き上げる限界値で一週間の食事にありつける。やはりペテンは誰が何と言おうと、効率のいい仕事だ。
 一週間ごとに支払う家賃は、格安のぼろアパートメントで、週に二人で銀貨二枚で足りる。トキとヒワ個別の部屋があって、居間があって、風呂もあるのにこの値段は安いと思うが、貧困街では高い方だろう。
 何しろトキは詐欺師で、浮浪者と比べたらかなりの高給取りだ。
 老婆から牛の煮込みを受け取り、足取り軽く貧困街を歩く。観光客にとっては危なくて近寄れない場所らしいが、緊張感はまるでない。薄暗がりに引き込まれたところで、逆に相手を打ち負かせて、懐から迷惑料として財布を抜き取るぐらいは苦でもない。
 もう長いことこの街で生きているのだ、それぐらいの体術は心得ている。骨と皮ばかりで細くて筋肉のなさそうなヒワでさえも、暴漢から身を守る術ぐらいは身につけて居るぐらいだ。
 裏路地に入ると、子供たちが数人たむろっていた。
「トキ兄!」
「お帰り、トキ兄!」
「おう。お前たち、相変わらずきったねえなぁ」
 薄汚れた身なりで駆け寄ってきた子供たちに、にんまりと笑いながらトキは自分の取り分が入っている方のポケットに手を突っ込んだ。じゃらじゃらと四角い鉄貨が指先に触れた。
 運がいい。今日は細かい鉄貨が山ほどある。
「今日はちゃんとヒワんとこ行ったか?」
「行ったよ!」
「ちゃんと報告したよ!」
 ヒワは自分が出歩かない分、沢山の路上少年や少女を毎日集めて話を聞く。自分が気に掛かっていることはもちろん、貧困街の噂、実情、現状などだ。それを元に現在の街を理解しているのである。
 子供たちはその度に、ヒワに菓子をもらう。その菓子はヒワの取り分から出ていて、買いに行くのもヒワだ。黙って駄菓子を買いに行く姿は、多少痛々しいが、人間嫌いで外に出ない癖にそういう所はこまめだ。
 でもこの子供たちの何気ない情報収集能力は、半端な物ではない。何しろ情報が入ってくるのは貧困街の話だけではない。
 中流階級の噂話、果ては中心街の花街で働く女性たちの愚痴までも集まってくる。彼女たちの愚痴は、ごくたまに上流階級の噂話を含んでいて、トキのような詐欺師にはうってつけの情報だ。
 ヒワはそれをまとめてメモ書きを作り、そんな情報から瑞山のことを知る。一日中街を歩き回っては飯の種を探しているトキよりも、ヒワの方が遙かに多くの物事を知っていだ。
 ヒワばかりが子供たちにお駄賃をやっていることに気がついた時から、トキも情報源である子供たちに駄賃をやることにしている。
「ほら、少ないけど持ってけ」
 細かくなって持つのに面倒な鉄貨を、一人数枚づつ手のひらに載せてやった。これでこの子たちも今晩は美味しい食事にありつけるだろう。
「ありがとう、トキ兄!」
 埃と泥で薄汚れた子供たちは、嬉しそうにトキを見上げると、笑顔で声を上げて掛けだしていく。その後ろ姿に、トキは笑いながら声を掛けた。
「スリに取られんなよ」
「分かってるよ!」
「そんなヘマするもんか!」
 口々にそう言いながら去って行くあの子供たちは、十年ぐらい前のトキだ。トキにもこうして面倒を見てくれた年上の路上少年たちが居て、こうして生きてきた。
 だから次がトキの番になったのだと、トキはごく自然に自分と子供たちの関係を受け入れている。
「トキ兄」
 不意に後ろから声を掛けられて振り返ると、先ほどの子たちより少しだけ年を重ねた少年が立っていた。継ぎ当てだらけのジャケットから、古ぼけた吊りズボンが覗いている。見覚えのある帽子に至るまで、全てがトキのお下がりだ。
 酷く癖毛の黒髪は、いつ洗ったか分からないぐらいに、もじゃもじゃと縮れて帽子からはみ出している。年は確か十四歳だ。戦争で家族親戚を全部失った、典型的な震災孤児で、名前をトビという。
「よう、トビ」
 少々生意気だが自分と似た名前だし、トキをこよなく尊敬してくれているから、彼を特別に目を掛けていた。
「どうかしたのか? そんな思い詰めた顔をして。女でも孕ませた?」
 ここいらではよくある話で、孤児が孤児を生むと問題になっている。からかいめいた言葉に、元来真面目なトビが眉を顰めた。
「……やめてよトキ兄。トキ兄が言うと冗談に聞こえないよ」
「そんなに俺がいい男?」
「うっかりミスして女を孕ませたあげくに、逃げ回りそうなタイプってこと」
「お前、俺を何だと思ってるのさ」
 トキは大げさに溜息をつき、片手で額を押さえた。尊敬されているはずだが、こういうことはずばりと言い切るのがトビのいいところだ。と思うことにしている。
「ヒワ兄に比べて節操ないよね」
「仕事! これが俺の仕事なの!」
 確かにトキは詐欺師で口が上手いし、田舎者の女性を騙して、カモにすることは多々ある。
 元々トキは女性全般が大好きで、カモにする相手以外の女性だったら、誰に誘われても後腐れが無ければ色々な温情をありがたく頂くことにしている。
 だがカモにする女は別である。食事をおごらせてから、大概女がシャワーを浴びている間に、財布の中身をぜんぶ頂いて帰るぐらいで、決して身体まで頂くような人でなしなことはしない。女好きを自認する、トキの信条だ。
 それに素人であるカモに手を出して、孕まれて、自分と似たような生き物がもう一匹増えるなんて、冗談じゃない。孤児が孤児を作ってどうするというのだ。
 少なくともトキは路上少年が増えることを歓迎しては居ない。トキがそうであるように、彼らは皆、心に重い傷を背負っているからだ。
「くだらない話はさておいて、トキ兄」
 あっさりと今までのやりとりを流されて、トキは溜息をつく。路上少年になる前の彼は、きっと利発な子だったのだろう。
「何だよ」
「リンが消えた」
 真剣なトビのまなざしに、トキは表情を改めた。黙ったまま顎をしゃくって続きを促すと、トビは頷く。
「シシ、ベニ、フシも消えたんだ。ここ一月に四人だよ、トキ兄」
 声を潜めたトビに、トキはそっと顔を寄せる。
「養子にもらわれたんじゃないのか? 孤児院に入ったとか?」
「違うよ。俺もそう思って孤児院を見て回ったし、大人たちに聞いてみたんだ。でもあいつらどこにもいない」
 思い詰めたようにトビは唇を噛んだ。路上生活をする子供たちは、トビからすれば皆兄弟だ。苦しげに黙ってしまった彼に、トキは続きを促す。
「……で?」
「絶対変だから調べたら、あいつらが居なくなる数日前から、妙な男たちに付けられてたみたいなんだ」
「付けられてた?」
「うん。ほら、あいつら、御使いだったから」
「……御使いか……」
 トキは呻いた。
 ごくごく希に、不思議な力を持った子供が生まれることがある。ある者は座ったまま遠くを見渡し、またある者は目に見えない自然の声を聞く。そしてある者は自然現象を操る力を持つ。
 この国で信仰されている暁の女神教と同じ、光、火、風、水、土、闇を操るのである。
 彼らは遙東では御使いと呼ばれる。他の路上少年たちと比べて、できることが桁違いに多く、食べていくことに苦労はしないから、単独で稼いでいることが多い。集団で物売りなどをしたり、金物を拾ったりする必要が無いのだ。
 それに彼らの多くは望めば暁神殿の管理下に置かれ、神官になる。実際にこの街でも見る光景だ。
 上流家庭や中流家庭ではどうだか知らないが、こと貧困街の場合、女神の力を持つ子供が暁神殿に召される時は、この街にも沢山の授かり物が配られる。女神の僕となる人々に関わった者たち、特に彼らを育んだ貧困街に、神徒たちの祝福が与えられるのだ。
 だが最近、女神の賜物は配られていない。つまり彼らが消えた理由は、暁神殿にはない。
「ヒワ兄にも話したんだ。途中までは頷きならが聞いてたんだけど、途中で急にその話に関わりたくないから帰れって……」
「へぇ……珍しいな」
「うん。急に仏頂面になったんだ」
 普段からあまり喜怒哀楽を表現しないヒワではあるが、情報源である子供たちにそんな態度を取るなんて珍しい。体調でも悪いのだろうか。
「トキ兄……どうしたらいいかな」
 深刻なトビの頭を軽く手のひらで叩く。もしゃもしゃの髪の毛のをかき回すと、トビは顔を上げた。
 不安げな眼差しを受けつつ、トキは口元を引き上げた。自信満々の笑顔という奴を作るのは、トキの得意とするところだ。
「調べてやるよ。ガキは余計な心配しないで寝ちまいな」
「本当に? 嘘じゃ無いよね?」
「俺は大人をカモっても、兄弟を騙さない」
 貧困街では親のいない子供たちは助け合うのがルールだ。その生活から一歩抜け出たトキであっても、この街で暮らしている以上、このルールは貫くつもりだ。
「ありがとう、トキ兄」
 トビが肩の荷を下ろしたように、笑みを浮かべた。利発なこの少年は、こうして生き生きとしているのが一番似合う。
「明日、お前んとこいくからできるだけ情報を拾っとけ」
「了解! いっぱい集めておくよ」
 やけに自信に満ちた言葉に顔をしかめる。
「こんな時間から情報を集めんのに、なんで自信たっぷりだ?」
「だってトキ兄、どうせ昼まで寝てんだろ? 俺んとこ来るのも昼過ぎだし、余裕余裕」
「……馬鹿にしやがって」
 文句を言って見るも、本当のことなので反論しようが無い。
「明日、待ってるからね!」
「朝一で行ってやるからな! 覚悟しとけよ!」
「トキ兄には無理無理」
 弾むような足取りに安堵の表情を浮かべて帰って行く背中を確認してから、トキは溜息交じりに頭を掻いた。もしかしたら面倒ごとを背負い込んだのだろうか。
 立ち尽くしていても寒いだけだから、もう一度大きく息を吐くとトキは自分のアパルトメントへと足を速めた。
 人混みから離れ、一本裏路地に入ると、古いアパルトメントが、いくつもひしめくように並び立っている。暗い路地にはトキの早足の靴音だけが壁に反響して高く響く。強固な石造りの建物だから、内部の生活音は全く零れてこない。
 見上げると黒々と建物の影が迫る。建物と建物の隙間などなく、まるで巨大な一つの建物のようだ。
 木組みと石積みで作られた、生成り色、薄い桃色、水色の漆喰塗りの建物は、風雨にさらされて、全てが薄ぼんやりとした灰色に包まれている。
 重厚な建物群といえばたとえはいいが、古いだけで無く、恐ろしくボロボロだ。人が住んでいるのかいないのか見た目では見分けがつかなそうな建物の中から、トキは部屋のある建物の中央扉を選んで集合玄関へと入った。
 中心街だったなら住む人などいないだろうが、ここには結構な数の人々が生活を営んでいる。
 薄暗い集合玄関には、緑青の浮いた銅作りの郵便受けが左右に分かれて並んでいて、一階の住民の扉が静かにその口を閉ざしている。ここまで来たって、住民たちの生活の何の物音もしてこない。
 その奥に各階を結ぶ螺旋階段が、建物の最上階までを抜ける吹き抜けのようにそびえ立っている。入り口の木造の扉が重たげな音を立てて閉じると、冷たい空気がすっと途切れた。まだ底冷えするように寒いが、風がないだけましだろう。
 トキの零す吐息に変わって、埃としめった空気が、しんと螺旋階段から下りてくる。太陽が空にある時間ならば、天窓から明かりが落ちて、古ぼけた木製階段を多少は美しく見せてくれるが、ランプの明かりだけが頼りの宵闇の中では、ただただ古い印象しかない。
 階毎に廊下が交差する階段を上る自分の足音の響きに、どことなく追われるような気分になりながら、トキは一歩一歩周りの気配に気を配りながら上る。この季節は、暖を取るためにこうした廊下の薄暗がりに潜んでいる浮浪者も少なくない。
 路上少年たちと違って、大人の浮浪者は、組織されているわけではないから、トキのような立場からすれば面倒で注意すべき相手なのだ。
 何しろトキはまだ成人したての十八歳だ。歳を重ねた彼らからすれば、子供の部類だろう。もちろん喧嘩となれば負ける気は無いが、刃物を手に迫られたら今日の稼ぎは諦めねばならないだろう。
 金があっても、生きて居てこそ。命あっての物種だ。
 五階の最上階まで上ったトキは、静まりかえった廊下をいつもの如く足音を忍ばせて進み、突き当たりの扉に鍵を差し込んだ。静かな廊下に施錠の音が響き、軋みながら扉が開く。
 扉の中に身体を入れ、後ろ手で扉を閉めた瞬間に、トキは少し安堵する。この街に住んで長いが、やはり何の警戒心もなく歩き回れる街ではない。だから絶対に安全だと分かっている自分の部屋に戻ってくると、本当に力が抜ける。
 入り口でコートとハンチング帽を掛けて、中に向かって呼びかけた。
「ヒワ、ただいま」
 二人で使っている狭い居間に入ると、古ぼけた石炭ストーブの火が、少し小さくなっていることに気がつき、隣にある石炭バケツから石炭を継ぎ足す。火は一瞬小さくなったが、構わずにストーブの上に載せられていた、大きなブリキのケトルを振る。空っぽだ。
「空焚きするなってのに」
 小声で文句を言い、タイル作りの炊事場までケトルを持って行って蛇口をひねり、水を満たした。寒くても屋上の水タンクが凍ることがないのは、こういう時に助かる。年中水が出るのはありがたい。
 戻ると石炭ストーブの中は赤く燃え始めていた。ケトルを載せると、石炭はまだ隣にバケツ一杯あることを確認する。
 外へと伸びるストーブの煙突には幾本かの鉄線が結ばれていて、そこには未だ洗濯物が掛けられたままだ。
「ヒワぁ、ただいまってば!」
 いつもはヒワが片付けている洗濯物を取り込みながら大声で相棒を呼ぶと、ようやく自室の扉が開いてヒワが顔を出した。室内にいるというのに、外から帰ってきたトキの三倍以上は服を着て着ぶくれている。その上何故か前屈みで、見た目だけだとぬいぐるみのクマみたいだ。
 最近夏でも着ぶくれているせいで、ヒワが少しでも大きくなっているのか全くのなぞだ。寒がりもここまで来ると一種の病かもしれない。
 小さく欠伸をかみ殺したのか、髪がふわふわと揺れた。遙東には珍しい、黒髪ではなく茶色がかったふわふわの癖毛に、白っぽい肌をしたそばかすが、妙に馴染む。長く伸びた前髪の隙間から覗く半開き目も微かに薄青い色彩を湛えている。
 トキは勝手に、敵国からの亡命者が、花街で身体を売っている花人たちを孕ませて産ませた子だと信じているが、本人は嫌そうな顔をして肩をすくめただけだった。
 きっとトキと同様、自分のことなど分かっていないのだ。
「お帰り、トキ」
 ぼそぼそと少し高くてかすれた特徴的な声で、しかも早口で聞き取りにくく口の中で呟くように言うヒワに、トキは溜息をついた。
「ただいま。何その髪。寝てたの?」
「まあ、思想にふけっていたというか……」
「つまり寝てた?」
「ベットに寝転がっていたからといって、寝ていたわけじゃない 肉体労働派からみればだらけているかもしれないが、僕は頭で仕事してる」
 ヒワは時折理屈っぽい。特に言い合いになると、声を張るわけでも感情的になるわけでも無いのに勝てない。トキがからかうと三倍の言葉になって返ってくるから、こういう時は別の話題にさっさと切り替えるが勝ちだ。
「はいはい。夕飯、牛の煮込みだよ。食べる?」
「食べる」
 朝食から何も食べていないヒワが素直に頷く。トキは二食きっちりと食べた上、出先で色々なものを摘まむが、ヒワはトキが運んでくる食事だけで生きている。
 珍しい容姿であることも外出を渋る理由になるだろうが、それ以上に外に出ることが面倒なのだろう。
 本当に腹が減れば彼だって、アパルトメントを出て食べ物を買いに行くだろうが、何となく彼ならば買い物に行って食事を取るよりも、食料庫の瓶詰めを舐めて暮らしそうな気がして怖い。
 どうやらヒワはあまり食料を必要としていないようだなのだが、そのせいで背が高くて均衡の取れた身体をしているトキと比べて、ヒワは小柄でとにかく線が細かった。トキはヒワの年を知らないのだが、年下だろうとは思っている。同い年だったとしたら、あまりにヒワの成長が遅すぎるし、食事を取る量が少なすぎる。
 まるで日陰の植物みたいだ。
 たまにトキは、同じ植物を日向で育てたのがトキで、日陰で育てたらヒワになるんじゃないかと考えることがある。
 背を丸めた格好で、自分の部屋から出てきたヒワは、振り向きざまにコインを一枚放ってきた。反射的に受け取る。
「回転コイン用のコイン。今までのはかなり摺れたっていってたろ」
 手のひらのコインを見ると、器用にコインの表側下と裏側上が一見すると分からないように斜めに削られている。これは客にコインを回させて裏表を当てるという最も単純なペテンだ。コインの裏表を上下逆に倒れやすく削ってあるため、客が回した途端にどちらに倒れるか分かる優れものだ。
 あまりに簡単に稼げるから、本格的なペテンの前座にやることも多く、枚数を持っていた方がいい代物だ。
「相変わらず器用だな」
「ありがたがってくれ」
 当たり前のようにそう言いつつ、ヒワはいつものように食器棚から二人分の食器を取り出して並べ始めた。
 出会った頃からヒワは異常に手が器用で、目にもとまらない動きで人の財布を摺り取るその指はトキの憧れでもあった。だから自然と二人はコンビのスリになった。
 だがトキが詐欺師になり、ヒワが後方支援と決めた時から、見事なスリの腕前を見ることはなくなった。
 その代わり、ヒワはいつも見事なペテンの仕掛けを作る。今日の稼ぎの大半を稼ぎ出したスリーカードに細工したのもヒワだ。毎日毎日ヒワは細かな小道具を作るために部屋に籠もっている。それがまた楽しいようだ。
 日常生活も仕事と同じように完全に役割分担されている。食事を買ってくるのはトキ、並べてよそるのはヒワの役割だ。部屋を手に入れて、一緒に暮らすようになってから決まった、二人の役割分担なのだ。
 部屋など持っておらず、道ばたで寝ていた時はお互いに役割なんてなかったが、今はすっかりこの役割分担で落ち着いている。
 最初トキは、ヒワに洗濯物、食事の片付けをやらせるのは気が進まなかった。遙東皇国では通常それは家を守る女性がやることで、男同士で暮らしている場合はお互いに同等だと思っていたからだ。
 だがヒワはあっさりとこれでいいという。その代わり、外には必要最低限しか出かけないと彼は宣言したのである。
 確かに路上少年だった時も、ヒワだけが知らない浮浪者に小突き回され、トキが彼らに立ち向かうことが多かった。
 幾度か小競り合いを繰り返し、一昨年までは断続的に十年近く戦争状態にあった敵国ネーソス人に近い容姿のヒワは遙東人より顔の彫りも少し深い。本人は親の顔も覚えていないというが、ネーソス人の血が入っているのは明らかだった。
 戦争が終わってから上流階級の住む最も標高も金額も高い地区では、時折ネーソス人を見るようになったという話だが、ここ最下層の貧民街では、本物のネーソス人を見た事もない。
 いつものように背中を少し丸めて、乏しい表情で油紙の袋に入れられた牛煮込みを盛りつけているヒワを見ていて、ふと思い出した。そういえばトビが妙に素っ気なかったと言っていたのだった。だがヒワは見たところいつも通りだ。
 自分で焼いたらしい大きなパンを切り分けている背中に向かって声を掛ける。
「今日、トビがきたろ?」
 一瞬妙な間があったが、ヒワは小さく頷いた。
「……ああ」
「話、聞いた?」
「聞いた」
「話聞いて、急に不機嫌になったってトビが……」
「そんなことない」
 思ったよりも強く、ヒワがそれを否定した。叩き付けるような断言に、いつもと違う拒絶感が含まれている気がして戸惑う。
「いや、どうかしたのかなと思っただけだけど……」
 戸惑うトキに、ヒワは我に返ったように振り返った。こちらを見る瞳が微かに動揺で揺れている。相棒の顔は見慣れているから、彼の心の動きまで簡単に伝わった。
「子供たちが消えたって聞いて、少し驚いたんだ」
「だよね。だってみんな御使いだって言うし」
 ただ同調しただけなのに、ヒワの顔がまた軽く引きつったのが分かった。こんな風に動揺するヒワを見るのは初めてだ。
 でもそのまま言葉を引っ込めるのも気持ちが悪いから、いつものように持ちかける。
「調べてみよっかなって思ってるんだけどさ」
「それはトキの自由だ。僕の許可を取る必要はない」
「……手伝ってくれる気は?」
「僕は今回は手を出さない」
 またきっぱりと言い切られた。
「何で?」
「悪いけど、無理だ」
「そんなあっさり……」
「御使いの行方不明が知れたら、警邏隊が動く。僕は警邏隊が嫌いだ」
 ヒワの動揺はここだろうと、トキは何となく察する。ヒワは自分の姿形のせいで、軍隊、警邏隊の全てが嫌いだ。街を歩いているだけで敵国の諜報員扱いされて怪しまれるヒワにとって、避けたい人々なのである。
 子供四人の行方不明であるが、ここは貧民街だから、警邏隊が動いてくれることはないだろう。だが御使いだったと言うなら話は別だ。御使いは神殿の庇護下に入れられる。神殿にこの話が伝われば、神殿経由で警邏隊が動き、失踪事件を調べるかもしれない。
 そうなればそれをかぎ回る存在は怪しまれる。それがヒワだったら、また敵国の諜報員かと誤解される。きっとヒワはそれがいやなのに違いない。
「分かった。じゃあ俺ひとりで調べるよ」
「ああ……」
「仕方ないよな。警邏隊だの神殿だのが出てくるんじゃ。戦争が終わったんだから、もうヒワにも構わないで欲しいよな」
 重くなってしまった空気を軽くしようと、冗談交じりにいったトキだったが、ヒワを見た瞬間にぎくりと竦んだ。ヒワの青い目が、いつも以上に青く澄んで悲しみを湛えているように見えたのだ。
「ヒワ?」
「そうだね。本当に勘弁して欲しいよ」
 妙にしおらしくヒワがそう言って俯いた。骨の浮いた手の甲が妙に白い。それがきつく握りしめているせいだと気がついて、トキは眉を寄せた。
 何でこんなに緊張しているんだろう。もう十年近く相棒であるヒワが、何を悩んでいるのか全く分からずに、トキは立ち尽くす。
 戸惑いの中にいるトキに気がついたのか、ヒワがいつもの微笑とも苦笑ともつかない表情を浮かべて自分から椅子に座り、向かいの席を指し示した。
「暖かいうちに食べよう」
 明らかに気を遣われて我に返り、曖昧に微笑みを浮かべながら席に着いた。目の前にはパンとバターも置かれている。小さく息をつくと、トキは明るく手を合わせた。
「冷めたらもったいないもんな」
「うん」
「ヒワ、いっぱい食べろよ。俺、宵霞でも少しつまんだし」
「これはトキの稼ぎだ」
「ヒワの稼ぎでもあるだろ。あまり食べないと、いつまで経っても大きくならないぞ。未だに声変わりしないなんて、お前だって困るだろ」
 ついつい年上風を吹かせると、ヒワは小さく溜息をついた。
「別に困らないけど……」
「嘘つけ。綺麗なお姉さんといつまで経っても遊べないなんて悲劇だぞ?」
 いつまでも細いヒワを心配していったのに、ヒワは思い切りトキを蔑んだ目で見た。
「……トキの中そればっか?」
「あ、男のロマンを笑ったな?」
「そんなロマンいらない。頂きます」
「頂きまーす!」
 結局その日は、トビの話を抜きにして、いつもの子供たちの話を聞いた。微かに心に刺さったヒワの痛みを伴う表情を、トキは意識的に心の奥底へと追いやった。




                                     ――――本編へ続く
TOP





inserted by FC2 system