必死の思いでつなげた無数の管によって小さく上下する胸は、もう自ら動くことなどない。
「こんなつもりじゃなかった……」
 気がつけば筆舌にしがたいその思いを、呟きと共に口の端の上していた。機械の作動する音だけが聞こえる静寂の中で、男は視線を巡らせた。
 無機質な金属の塊、台上を這う透明な管、音もなく瞬くいくつもの小さなランプの輝き。
 そして、二度と動かない友の体。
 混乱する中で男は、目の前で先ほどまで赤く光っていた小さなLEDランプがフッと青く変わったのを見た。力の入らない足をもつれさせながら近づき、男は震える手でランプをそっとなぞった。
 その光が思い込みでも幻覚でもなく、間違いなく青く輝いていることを確認した男は、そのたった一つの青い光にすがるように、その場に崩れ落ちた。
「……神よ……」
 男は呟く。神など信じたことなどない。科学は神の存在をこの世から駆逐する、そう考えてきた男だが、こんな時にはこんな言葉しか出てこないのだということを、初めて思い知る。
 ああ、神よ。
 あなたは罪深き科学の使徒であるこの私に、もう一度、友と生きる権利を与えてくださるのか。
 その輝く御手で、嫉妬と焦りのあまり、友を手にかけてしまったこの私に、優しき御心で許しを与えてくださるのか。
 男は両手で顔を覆った。血の気が引き冷え切った手が、暗い喜びに昂揚する額を冷やしていく。
 そうだ。与えられた機会を不意にするわけにはいかない。冷静にならねば、この細き神の慈悲の糸を断ち切ってしまう。
「死んでる……このままじゃ、人殺しだ……人殺しだわ……」
 現実に立ち返った男の耳に、呆然と呟く女の声が届いた。ゆっくりと両手を額から引きはがしながら振り返る。
「死んでいないさ」
 自分の物とは思えないような静かな声が、喉を震わせる。自らが乖離してしまったようにその声を遠くに聞きながらも、男はゆっくりと自分が微笑んだのが分かった。
「人の死が記憶や、感情であるのなら、まだ死んではいない」
 例え身体は死んでいても、ここに想いが、記憶があるのならば生きている。身体など、記憶を収めておくための器に過ぎない。
 ならば器を変えればいいだけの話だ。人と見分けが付かないほどに、ヒューマノイド技術が進んでいる現在ならば、それが可能だ。
 強固に機械を恐れる諸外国とは違い、この国の人間たちは、すでに社会にヒューマノイドがいる事に違和感を感じなくなっている。
 人と見分けの付かないヒューマノイド、そして倫理的に禁じられているが、男の手にあるこの技術……。
 男は記憶をバックアップすることを、世界に先駆けて成功した研究所の研究員だった。未だ不確定要素が多く、研究論文になったことはない。学会に報告されてもいないため、未だに世界に知られる技術では無い。
 今回の実験によって得られたデータと実証結果から、初めて世界へと伝えられるはずの技術だったのである。
 研究所と言っても規模は限りなく小さい。地下に存在する巨大な電算システムによって成り立つ研究所には、常任する研究者は少なく、全ての研究者が自分の研究室からネットワークによって繋がっているに過ぎない。
 研究所に存在するいくつかのラボラトリもそれと同じようなシステムで運営されていて、一つの部署の情報を全ての部署で共有することも滅多にないぐらいだ。
 それが幸いした。まだ誰も、友が死んだことを知らない。
 男は再び青いランプをゆっくりとさすった。このランプが青く点灯したことは、記憶のバックアップが完了したことを意味する。
 つまり実験前までは笑みを浮かべていた友は、この巨大な電算システムの中で一つのデータとしてまだ生きているのだ。
「ですが、警察には……」
 女の声が煩わしい。男は暑くもないこの部屋の中で額に汗をにじませる女を見据えた。いつもは冷静に自らの研究に没頭している女は、罪の重みに怯えながら身を竦ませている。
「検体保管の余裕はまだあったな?」
 淡々と確認すると、女は頷く。
「……全身用ですと、研究所全体の許可が……」
「死んだ身体など取って置いても仕方ないだろう? 脳だ。脳だけ生命維持装置で培養できればいい。まだ不確定部分を吸い出せていない」
「ですが!」
「君は人殺しになりたいのか?」
 緩やかに微笑むと、女は小さく引きつけたような悲鳴を上げて、目の前の端末を狂ったように叩き始めた。コンソールから画面にと走る文字の羅列に、男は満足して視線を女から外した。
 男は目を閉じたまま、身じろぎもしない友の体を静かに見下ろした。
 自分が死んだことにも気がつかず、脳はただ昏々と眠り続けている。身体が静かに、ゆるりと死んでいく。そんな感覚は、きっと誰も知ることはできない。
 身体を知覚するのは、脳。
 そして身体を離れてもなお、生き続けるのが記憶。
 ならばまだ彼は死んでいない。
 彼は生きている。まだ終わったわけじゃ無い。
「死なせないさ。絶対に」
 呟くと、男は自らのコンソールに手を伸ばした。流れるように指が動き、迷い無く文字の羅列を目が追っていく。人から見れば訳の分からない文字たちが、男の頭の中できちんと文字変換されていく。
 やがてその文字の羅列は、男の目の前でその意味をさらしだした。
『脳以外の部位を、分解処理しますか? Y\N』
 男は一人画面に向かって薄笑いを浮かべた。
「YES……」
                                     ――――本編へ続く TOP





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